私的ルーヴル八十八宝めぐり⑧絵画篇(イタリア・スペイン絵画)

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連日、郷里 熊本地震へのお見舞いをありがとうございます。来週、熊本に帰る予定にしていましたが、当初の予定通りです。しっかりと今の熊本を見てきたいと思っています。

そして、これが最後の記事。ルーヴルのこの450メートルの長いグランド・ギャラリーのように、まとめるのにも少々時間がかかってしまった。6万平米のルーヴルには450もの部屋があり、毎日2万人の来館者を誇る。監視員は1,000人。今回、若いボランティアもたくさんいた。でも、私が探している作品の行方を尋ねても、対応できた人はいなかった。ベテランの監視員からは「日本人はモナリザやミロは聞いてくるけど。あなたって・・」と笑われてしまった。

1595年、アンリ四世は、ルーヴル大改造に着手、このグランド・ギャラリーが出来上がった。幼いルイ十四世は、この長いギャラリーで、ラクダ競争や狐狩りごっこに興じていた。フランス革命を経て、1804年、皇帝となったナポレオンは、アンリ四世の大構想を上回る壮大なプランを描き、質量ともに、世界最高レベルの美術館に引き上げた。その後も、普仏戦争、パリ・コミューン、第一次世界大戦と、幾多の困難を乗り越え現在に至る。そして、これからも、ルーヴルは、進化をし続けるだろう。

2004年1月発行
芸術新潮「精選!ルーヴル八十八宝めぐり」

美術史家の小池寿子さんがルーヴルの常設展示3万6000点から88点を選りすぐり、古代エジプトからドラクロワまで、効率よく楽しく回れるよう秘密の急所を伝授した永久保存版。私のルーヴル鑑賞におけるバイブル。そのバイブルをナビに、今春、私的ルーヴル八十八宝めぐりを実現(12年ごし・・)!

本来ならパリの街角動物のまとめが先だけど、12年ごしとあっては・・ここはルーヴルを優先!余韻に浸りつつ健忘録。

結局、2日間に渡り、88のうち74の宝をみることができた・・




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≪授乳の聖母子≫
バルナバ・ダ・モデナ
1370年
テンペラ 金 板

宗教が複雑化、形骸化(けいがいか)する13世紀頃から、ヨーロッパ各地で聖母崇拝が広がり、聖母子像が多く描かるようになる。聖母マリアの後光には「よき勧めの聖母」と書いてあるのだろうか。絵は、14世紀イタリア、ルネサンスへと歩み始める時代に入っても、バルナバの聖母子はいまだビザンティン美術の影響を留めている。青いマントを纏い赤い服を身に着ける聖母マリアは、希望の印、太陽の到来、導きの星として「海の星」と呼ばれた。聖母子をテーマにした絵画はたくさんの画家によって描かれているが、聖母子ともにコチラを見ている絵をあまり知らない。モナリザが描かれたのはこの絵の約140年後だが、モナリザ効果か、この視線から逃れられなくなる。




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≪聖ヒエロニムスの奇跡≫
イル・ぺルジーノ
1473年~1475年頃
テンペラ 板

多翼的祭壇画の一部、聖ヒエロニムスの赤い祭服、そのデザイン、ふたりの死体に、目が釘付けになった。赤い祭服は、血に象徴されるように、受難の主日(しゅじつ)や聖金曜日、殉教者の祝日・記念日などに用いられ、慈悲に繋がるとされてきた。刑場の死体は、聖ヒエロニムスの慈悲が通じたのか、死してもまだ生きているように見える。聖ヒエロニムスは、ローマ・カトリック教会 四大教父の一人。脚に棘を刺したライオンと出会い、棘を抜いてやったところ、そのライオンは生涯 聖ヒエロニムスに尽くしたという武勇伝を持つ。




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≪パドヴァの聖アントニウス≫
コメス・トゥーラ
1475年
油彩 板

聖アントニウスはポルトガルの出身。フランシスコ修道会に入り、聖フランチェスコの弟子となる。 弁舌に優れ、魚に説法をしたという。きっと熱弁をふるったのだろう、左手に持つ聖書が鼻息?でぱらぱらと捲れているのが印象的だ。グスタフ・マーラーは、交響曲第2番『復活』の第3楽章で「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」を引用、煩悩に充ちた支離滅裂な人間界を魚に例え、壮大なオーケストレーションで寓意した。一見通り過ぎてしまいそうな聖人の絵でも、どこかに自分なりの面白味を見つけると、距離がぐっと縮まる。




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≪祝福するキリスト≫
ジョヴァンニ・べッリーニ
1460年頃
油彩 板

小池さんは、キリスト三態として、以下の3作品を比較している。情けないキリスト、哀れみをそそるキリスト、美男風のキリスト、年代順に並べてみた。いづれも祈念像の形式をとっている。ジョバンニは、父ヤコボの工房を継いで、兄ジェンティ―レとともにヴェネツィア派を築いた画家。祝福のために上げた右手が弱々しい、脱力系のキリストだ。




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≪円柱の縛りつけられたキリスト≫
アントネッロ・ダ・メッシーナ
1476年頃
油彩 カンヴァス

メッシーナはシチリア出身、フランドルにも旅をして、繊蜜描写と油彩技法を学び、テンペラが主体だったイタリアの板絵に革命をもたらし、とりわけヴェネツィア派に多大な影響を与えた。着飾ったモデルを描く肖像画や、宗教をテーマにした作品を得意とした。小品が多かったのだろうか、この絵も個人からの注文で描いている。まず、キリストがメタリックのような円柱に縛られていることに背筋がひんやりした。茨の冠もメタリックにみえてきて痛々しい。メッシーナは、狭い枠の中にキリストの上半身を描くことにより、肖像画のように仕上げたのだ。つい感情移入してしまった。




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≪エッケ・ホモ(この人を見よ)≫
バルトロメオ・モンターニャ
1500年~1507年
油彩 板

まるでパティシエのセヴァスチャン・ゴダール(わかる人にはわかるw)を思わせる美男のキリストを描いたモンターニャは、郷里からヴェネツィアに出て、ジョバンニの工房で仕事をしていたとみられ、メッシーナの影響を受けたとされる。エッケ・ホモは、磔刑を前にしたイエス・キリストを侮辱し騒ぎ立てる群衆に向けて、ピラトが発した言葉だ。エッケ・ホモといえば記憶に新しい・・2012年、当時82歳の自称修復士のおばあちゃんが加筆した「猿のキリスト」を思い出すw。以上の三人は、15世紀後半、東西交易の中心地として繁栄した国際都市ヴェネツィアでシンクロしているのだ。三人三様でとても興味深い。




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≪イエスの割礼≫
ジュリオ・ロマーノ
1521年~1522年頃
油彩 カンヴァス

16世紀初頭、イタリアはすでに盛期ルネサンスを経て、マニエリスムの時代へと向かっていた。その後にはバロック期が控えている。ジュリオ・ロマーノはルネサンス中期の建築家・画家。主題よりも蛸足のようなうねうね柱に目が奪われる。幻想的で官能的なマニエリスム芸術は現代に通じるものがあると、ジュリオ・ロマーノの作品をみて思う。




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≪ピエタ≫
ロッソ・フィオレンティーノ
1533年~1540年頃
油彩 カンヴァス

フィレンツェの画家。1527年、神聖ローマ帝国皇帝カール五世に略奪されたローマから逃れた画家たち、ロッソ・フィオレンティーノは、新天地を求めながら国際マニエリスムの潮流を生み出していった。フランソワ一世に見染められたロッソは、フォンティーヌブロー宮殿の回廊の装飾を担当、優美な世界を見事に演出した(フォンティーヌブローは未踏の地、行きたい)。こうしてロッソは、マニエリスムをフランスに伝える大切な役割を果たした。が、気性の激しい性格が災いし友達と衝突、若くして自殺で亡くなっている。この絵の聖母マリアからは、やるせない焦燥感を感じる。




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≪サビニの女たちの略奪≫
ジャック=ルイ・ダヴィッド
1799年
油彩 カンヴァス

ダヴィッドは、18世紀後半から19世紀前半にかけて、フランス史の激動期に活躍した、新古典主義を代表する画家である。ローマ人によって略奪されたサビニの女たち、サビニの男たちは女たちを奪回しようと戦う。ダヴィッドは絵の中で、ギリシア彫刻に表わされているような裸体の戦士を描くことにした。・・とすかさず、戦士の盾に目がいく。そ、私のテリトリー、ルパ・ロマーナ(ローマの狼)、ローマ市の紋章が施されているではないか!- La Louve et Romulus et Remus - ロムルスとレムスは、ローマの建設者で双子の兄弟。叔父の王によってテヴェレ川に捨てられ、狼によって育てられたと伝えられる。ローマにとっては母のような存在なのだ。この戦士も、この盾に守られ、無事に女達を奪回できたに違いない。

余談・・
1804年、皇帝となったナポレオンは、屋根がないまま放置されたシュリー翼を完成させた。 その為、芸術家たち約200人(その中にはこのダヴィッドもいた)を強制退去させている。 ナポレオンの栄光とドゥノンの手腕によって、ルーヴル美術館は、質量ともに、世界最高レベルの美術館になった。ちなみにこの絵もドゥノン翼でみることができる。





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≪メデューズ号の筏≫
テオドール・ジュリコー
1819年
油彩 カンヴァス

1816年、150人以上の乗組員を乗せた軍艦が、セネガル沖で難破した実話をもとに描いた作品。あのドラクロアが友人ジュリコーのために死体役をかってでたことで知られている。 ジュリコー27歳の時の作品。当時、賛否両論の物議を醸し出した大作だったが、好き嫌いは別にして、私も今回この記事を書くにあたり、美術作品を見る姿勢の大切さに気付かされた。敬遠していた作品ほどいっぱい向き合った。

余談・・
1870年、パリがプロイセン軍に包囲されると、グランド・ギャラリーは、銃身を彫る工場と化した。翌年5月には、パリ・コミューンの最中、チュイルリー宮に火が放たれる。チュイルリー宮は焼け崩れ、12年もの間無残な姿をさらした末に撤去、「口」の字型に完成したルーヴルは、わずか25年でその一辺が欠けて「コ」の字型となってしまった。そして、第一次世界大戦、美術品たちの疎開合戦。1914年、主要な作品が、南仏トゥールーズやブロワまで特別列車に乗って疎開した。この絵もそのひとつだった。が、その大きさから、ヴェルサイユの市庁舎前で、カンヴァスが市電の架線に引っかかりショート、暗闇の中、飛び散る火花が名画を照らしたといわれている。まるで「メデュース号の筏」の運命を物語っているようだ。。





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≪サルダナバールの死≫
ウジェーヌ・ドラクロワ
1827年
油彩 カンヴァス

いよいよ最後の一枚は、ドラクロア29歳の時の渾身の作品。この絵にも、フランス人の子供たちの社会科見学の姿があった。私がカルーゼルの職人展に出展した時も、木曜日だったか、子供たちの社会科見学デーという日があり、熱心に丁寧に私のブースを見てくれたことを思い出す。サルダナパールはアッシリアの王、快楽主義者で、栄華な生涯を送った専制君主である。当然、反乱が起こる。だが、王は「自分が死ぬ時はもろともに」と明言していた。。この作品は酷評だったが、若き詩人ボードレールは礼讃した。「ロマン主義と色彩は、私を真っ直ぐドラクロワへと導いていく。彼がロマン派という肩書を得意に思っているかどうか私は知らない。だが、彼の座席はここにある。なぜなら、大部分の観衆は、随分前から、彼を現代派の首領と認めてきたからである。」


by cocobear-riko | 2016-04-22 13:59 | 1er arrt | Comments(0)

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